src="https://pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js?client=ca-pub-4532488125941757" 努力の先にあるもの | あつたろうの教育相談室

努力の先にあるもの

もちろん結果は大切

特に社会は世知辛い。

どれだけ当人なりに頑張ったとしても、努力したとしても、それが明確な結果に結びつかなければ、それは努力と認められないことがある。

逆に大して頑張っていなくても、好結果が出れば、その功績が認められる。

学生時代で言えば、受験なんかはその社会の縮図だ。

受験勉強をどれだけ頑張っても、たった一点基準に届かないだけで不合格。

大して努力をしていなくても、基準にさえ届けば合格。

仮に結果が二つしかないとして、合格=勝ち、不合格=負けと定義するのなら、精一杯頑張っている様子を見ていたのに「不合格=負け」となってしまった生徒を少なからず見てきた。

ただし、僕は不合格=負けという考え方は嫌いだ。

確かに社会ではそのように機械的に判断するしかない場面はあるし、それが社会の厳しさであるとも言えると思う。

確かに受験は合格と不合格のどちらかしかない。

しかし合格しさえすれば勝ち、というのも違うと思う。

単に合格したいだけなら話は簡単だ。

自分の学力よりもグッと下げた学校を受験すれば良い。

もちろん受験に100パーセントはないが、それでもこうするだけで、可能性を限りなく100パーセントに近づけることはできる。

では逆に受験前の段階で、どう足掻いても実力的に届かない学校を受験することに決めたとしよう。

どれだけ努力してきたとしても、今では模試などである程度正確に合否の予測を立てることができる。

受験前にある程度可能性を見立てることができるが、厳しいと分かっている学校にそれでもどうしても行きたい、受かりたいという一心で逃げずにチャレンジする生徒もいる。

でなければ社会の発展はあり得ない。

頑張ってさえいれば結果はどうあれ、「頑張った」という事実だけが評価されるのも変な話だ。

そもそも結果を判定材料にしないと、何を以て「頑張った」という基準にするのかも曖昧で、それこそ公正さを欠く。

頑張るという価値観は人それぞれで、他人から見れば頑張っていなくても本人は本気で頑張っていると感じているケースだって当然ある。

例えば子どもを塾に通わせるとなった時、親の立場からすればどんな塾に大切な子どもを通わせたいだろう。

同じお金を払うなら、やはりそれに見合った環境を選びたい。

仮に2つの塾があるとして、一方の売りは「良い講師陣ばかりで子どもに熱心に指導します!」だとしよう。

もう一つの塾は、「今年度入試、受験生の90パーセント以上が第一志望合格!」だとする。

どれだけ良い講師がそろっていたとしても、親として目を引くのは間違いなく後者だろう。

そもそも良い講師の定義が曖昧だし、熱心に指導するなんて塾講師なら当たり前で、そこに大きな魅力を感じる人は少ないだろう。

塾とは良い講師との出会いが目的なのではなく、自分の目標達成を叶えてくれる場所だ。

この例からも分かるように、根性論ではなく、きちんと実績の伴う結果が必要なのだ。

だから結果重視の考え方が間違っているとは思わないし、決してそれを否定しているわけではない。

要は、本当に頑張っている人間を、結果だけで何もなかったかのような扱いになってしまう考え方が嫌いなだけだ。

目に見えないもの

先述したような結果は、文字通り目に見える結果だ。

しかし真の財産は、目に見えない部分や、悔しい結果に眠っていることが多々ある。

勝ち負けについてはスポーツを例に挙げると分かりやすい。

試合では必ず勝ち負けがある。

そして、負けるつもりで試合に挑む者はいないし、負けたいと思って臨む者もいないだろう。

けど、一方で時には負ける経験も貴重だ。

おそらくよほど謙虚で自分に厳しい者でない限り、試合に勝ってその試合のダメだった部分を振り返ろうとする者はいない。

勝った喜びで、むしろ苦しかった思いが一気に吹き飛んで、完全に舞い上がってしまうのが普通だ。

でも、どんな好結果で終わったとしても、振り返れば反省するべきところだって必ずある。

これはむしろ指導者の腕の見せ所でもあるかもしれないが、要は振り返りを怠れば、その点から学ぶこと、吸収できることに蓋をしてしまうことになる。

一方負けて悔しい思いをする者は、逆に振り返りと反省だけをすることができる。

試合を通じて学ぶことが多いのはどちらなのかという話だ。

敗北からしか学べないこともある。

選手が成長し、より大きくなっていく上で、この敗北による悔しさを乗り越える経験、敗北から学ぶという経験は貴重な財産になる。

悔しい思いをすることで学ぶことができることを知っている者はどんな分野でも強い。

成功と失敗を繰り返すことで人は大きくなれる!

失敗が許される段階で数多くの失敗をしておく経験は非常に大切だ。

失敗をしないと、失敗を乗り越えるという経験ができなくなる。

当然経験しなければ、失敗の乗り越え方が分からない。

教え子たちにもよくそういう話をした。

例えば模試で思うような成果を出せず悔しい思いをした時、その悔しさを絶対に忘れないように指導する。

そしてそれを心身ともに乗り越えるよう鼓舞する。

これを繰り返すことで、失敗した悔しい気持ち、どん底に突き落とされた気持ちを立て直し、精神面が鍛えられる。

しかし模試で一回も大きな失敗をしたことがない人が、受験直前の仕上げの模試で初めて大失敗してしまうとどうだろう。

考えただけでも恐ろしい。

最悪のメンタルの状態で、本番を迎えることになる。

それまでに何度も失敗の経験を繰り返している者であれば、物ともせず切り替えられる可能性が高い。

だからやはり失敗の経験は必要なのだ。

何事も山あり谷ありで進んでいくことが大切だ。

谷に落ちるたび、何度でも山を登る経験が、その人を必ず大きくする。

目に見えない財産の蓄積で得られるものこそ尊い

正直僕はこれまでの人生で、形として残る大義を成し遂げた、という経験がほとんどない。

スポーツで何かの大会で優勝した、という経験もないし、何なら高校も大学も第一志望の学校に行けなかった。

何か社会で役立つ資格もそんなに持っていない。

けれど、悔しい思いや惨めな思いは嫌というほどしてきた。

その都度、自分には何も秀でた才能はないと思い、落胆していた。

けど、自分がそういう人間でなかったらここまで乗り越えるための努力なんてしてこれなかっただろう。

もし自分にこのような精神力が鍛えられていなければ、会社もとっくに辞めていたかもしれない。

そして自分がこういった経験をしてきたからこそ、苦しんでいる受験生を中心に、色んな人に色んな角度から助言を贈れる経験値が溜まったようにも思う。

努力をして無駄になることなんて一つもない。

どんな形であれ、必ず努力して良かったと思える時が来る。

努力がいかに素敵で素晴らしい物であるかを多くの子どもに知ってほしい。

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